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今後の活動について

突然なんですが、当ブログとtwitterでの投稿をやめようかと思います。
恐らくブログはこのままに、twitterはアカウントごと消去する予定です。

また連絡用のメールアドレスkubomi0727@gmail.comも、登録している他のウェブサービス用に残しておくだけで、確認することはほとんどなくなるかと。
理由はなんとなくです。なんとなくで始めたものはなんとなくで終わるべきです。書くべきことがもはやありませんし、あるなら匿名で書いた方がまだリーチするような時代です。ほんと、深い理由はありません。

tumblrはてなブックマークは個人的な記録用に利用を継続しますが、公開範囲についてはまだ考えていません。

geocitiesの頃から合わせると10年近くになりますが、たくさんの人にご覧頂き、たくさんの人と知り合い、また別れ、いろいろと学んだご恩もありますが、紡ぐ大仰な言葉も浮かばず、パッタリとこれにて終演、お陀仏でございます。

本当にありがとうございました。

俺は「釣り判定」を下したがる奴に対して心底怒っている

http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20131015001328
元記事が消えているので転載文も載せておく。
ミシュランの星がついたレストランで同棲中で婚約中の彼女と食事をした。 - はてな匿名 増田まとめ
レストランで婚約者と食事をしたら、母親からのメールに対応する時間が長かっただけでえらい機嫌を損ねられたという話。
これに対して、

電車で運転?さては釣り?

とか

あらま、こらまた盛大な釣りで。

とか書かれていた。電車に関しては、所謂パークアンドライドだったんじゃないの、と思うが。

今回書きたいのはそこじゃない。何か物議を醸すような記事が上がってきたとき、すぐに「これは釣りだ」って言いたがる人たちについて、私は非常に憤りを感じるということだ。

最近だとこの記事に対するブックマークコメントの一番乗りが「釣りです。」だった。

証拠不十分なまま釣りだと断定する愚かしさを説きたいんではない。悪質なのは、「これは釣りだ」と言いたいだけの人間が多数いるということだ。正直、上二つの記事の内容なんてどうでもいい。事実だろうが創作だろうが勝手にしたら良いし、釣りだったとしてドヤ顔で釣り解説でもしたらいい。そうではなくて、なんでもかんでも釣り判定を下したい人間がいるせいでネット上のさまざまな表現が萎縮することを懸念しているのだ。

まず「コレコレの箇所が矛盾しているからこれは釣りだ」という人がいるが、人間が書いたものってのは事実に基づいていようが結構な割合で破綻する箇所が生まれるものだ。例えば思い出話を書こうとして何の気なしに「あれはバイトの帰りだったと思うが……」と書き出し、物語の舞台が昼の1時になっていたりすると、注意深い人間からしたら「昼の1時に上がりのバイトなんてあるか?」となるだろう。まあ実際にその時間に退勤のバイトがあったのかもしれないし、実はバイトの帰りではなく大学の帰りだったのかもしれない。ただそこを見つけて鬼の首を取ったかのように「これは釣りだ」「創作だ」と言い張るのは、なんていうか、ナンセンスだ。そこまで厳密に整合性を詰めて書くのは金貰って物書いてる人間に求めれば良いことで、ブログってのは、そういう糸屑ゴミ屑が混入するのを承知で、一般人が表現するのを助けているもんだと思っている。

「釣り針が大きすぎる」とかも、それ言いたいだけだろって感じがする。

最近こういう流れが増えてきたのは、創作や虚構がネット上で拡散されたりする事例が増えたのと、釣る側の人間がそのことを発信し始めたのがきっかけだったように感じている。別にそれはエンターテイメントの範疇で勝手にやったらいい。人を釣って笑うのも勝手にやってくれ。釣られるやつは馬鹿だと遠巻きに馬鹿にするのもやったらいい。こんな釣りをやりました今から解説します、ってのも需要に応じてやってくれ。書籍化してもいい。悪趣味で個人的には反吐が出るけど全部自己責任でやったらいい。

ただそうした「違いの分かる人間」になりたがっているだけの醜い人間が、プロでもなんでもない人々の書いた記事や投稿の揚げ足を取って、あるいは文章の印象だけで「これは釣りだ」と罵るのは、もう地獄でしかないだろう。それで記事を消したら消したで「逃げた」「消すくらいなら書くな」などと言っている。そういう風潮が、自由すぎで洗練されてなくて文法も脈絡も穴だらけで、だけど20年前なら絶対に文章で何かを表現することなんて無かった層の意見、つまりインターネット、ブログのもたらす光を冒涜している。今は悪臭漂うはてなの中だけの風潮でしかないが、それをリテラシーだと勘違いした人間がいずれもっと大きな規模のインターネットを退化させる。ちなみにデマをデマだと警告することはすべきだ。ただ、それと「いちゃもん」は全く違う。

一昔前の「ステマ」も同じで、何かを褒めればステマと言われるような風潮が、誰に指図されるでもなく心からお薦めしたい・宣伝したいという言葉を萎縮させていた。フィルタリングはそれぞれがやるべきで、誰が引っかかろうが乗せられようが、誰がそれでいくら得しようが知るかと思っていたが、「何を言ってもステマと切り捨てられる」風潮が、いくつもの表現を人々に堕胎させたことが私は悲しかった。
「釣り」もまたそんな言葉になっているのではないか?感情に任せて書きなぐったものを、人に伝えたいという一心で書いた名も無き人間の叫びを「釣りだと言われるのではないか」という恐怖で萎縮させるのは、悲劇だろう。

要約すると、俺の嫌いな類のクソ表現は俺の愛するタイプのクソ表現の未来を潰すなという、ただそれだけの感情論であって、表現の自由とかそういう次元の話ではない。でも書かずにはいられなかった。夜中の3時だ。クソ。

言いたいことは以上。これも釣り。


《追記 2013/10/18》
いい話だと思ったら無条件で拡散するのが「信じたいものを無条件に肯定する」行為だとしたら、それと反対の「信じたくないものを無条件に否定する」行為は「早まった釣りの断定」だと思う。
そしてこれは完全に個人的な皮膚感覚でしかないけど、最近たいした根拠も深い推察も無く「これは釣りだ」と言いたいだけの人間が増えているような気がしている。

あるいは、嘘から人々を守るという大義名分で脳が麻痺しているのかもしれない。

その上で何を危惧しているかといえば、何かを書こうとしている人に「こんなことを書いて釣りだと罵られたらどうしよう」と思わせてしまうのではないかということ。これは今は小規模なインターネットの中の風潮でしかないけど、いつか、産まれる前に表現を殺す土壌を作る。

不必要に警鐘を鳴らすことに功罪があることは、福島の原発の一件が似た例だろう。嘘・釣り・デマは裁かれなければいけないが、それを裁くシステムは何も傷つけないかというのは別の話だ。私自身は、感動できるなら、役立つなら、示唆に富むなら作り話でもいいなどという、はた迷惑な精神は持ち合わせていない。

あと、既に書かれたものに対して釣りだ何だと言うことや、それで書いた人間が傷つくことについては、これはなんとも思っていない。書いてしまったことには責任を持てば良いし、それを弄って遊ぶ人間も自分の責任で勝手にやったらいい。あくまでこれから書かれようとしているものを牽制する側面についての話だ。


以下ブックマークコメントに返信。

id:hisawooo ウソがのさばってるほうがやだなあーウソでも感動できるからいいじゃんとか言っちゃうタイプのひとかー

嘘がのさばってるのは私だって嫌ですが他人の書いたものを碌な根拠も無く嘘扱いして良い訳ではないでしょうし、それはそれでデメリットがあるという話です。

id:nakakzs 別にあげつらって優越感に浸りたいわけじゃなく、それが嘘であるのに放置するとマズイ情況が多々あるんだってば。|最近創作として出たゲーセンの女の子も当初は事実のようにまとめられてたしな。

それが本当に嘘なら放置するのはまずいし、警告することが必要なのは分かっています。ただ、何でも嘘だと断定しておけばみんなが馬鹿を見ずに幸せになれるのか、っていうのは、少し違うと思います。

あとid:topisyuは薬物の常習犯みたいなモンだと思っているので手に負えないです。

「お召し上がりですか」について

最近ファーストフード店に行くと「店内でお召し上がりですか?」の意味で「お召し上がりですか?」と聞かれることがある。

最初に聞かれた時は、ナチュラルに「Do you eat it?」の意味で取ってしまい即座に「はい」と返事をしてしまった。しかも運の悪いことにその時は持ち帰り希望で、一寸経ってから意味を察して「やっぱりテイクアウトで」なんて言ってしまった。これでは只のちょっと迷惑な客である。

GIGAZINEの記者は分解して撮る用に買うかもしれないし、アンチ添加物の人が実験用に買うことはあるかもしれないが、普通は食用目的以外で買うことはありえない訳で、少し考えれば分かることなのだが、未だに面食らってしまう。

「お持ち帰りですか」の言い間違えなのかと思ったが、他のファーストフード店でも聞くようになったし、ネットでも同じことを嘆いている人がいた。もしかしたらマニュアルになっているのかもしれない。

もういい歳こいた大人なので、今更こんなことに日本語の乱れだ何だと目くじらを立てて怒ることはないけれども、特に省略するメリットもないわけですごく不思議なのである。
いっそのこと「店内で?」と戸田奈津子的な聞き方をしてくれてもいい。個人的には。

死んだ祖父について

今年の初夏に祖父が死んだ。

私は死んだ人間の人格について、とやかく言うつもりは無い。というか、好きではない。自分が死んで生前の私についていろいろと憶測を述べられるのは癪だ。己の欲せざる所は人に施す勿れ、である。私自身、祖父については結局小指の爪ほども知ってなどいなかったのだろう。何を知らなかったとして、私がそれを補って語る資格など無い。

よってここでは祖父の遺体の話である(それは良いのかよ)。

私が実家から呼び戻されたのは祖父が亡くなる3日ほど前だった。一月前に、一度具合が悪くなって入院したということで帰った時は、彼は自力で歩くことが出来たし、話すこともした。それから退院して自宅でしばらく過ごした後、容態が急変したとのことだった。私が三重に到着した頃には、自発呼吸はあったものの意識は無かった。命日から逆算すれば、長く苦しい闘病生活などはほとんどなかった計算になる。そのことは、私の取るに足らない不安を和らげてくれるものだ。倒れて、少し経って、旅立ったのである。

祖父は早朝に亡くなった。父が傍らで見守る中心肺停止した。私は臨終には立ち会えなかったが、遺体がまだ温もりを保っている内に、顔を見ることが出来た。私を含め家族はずっと心の準備が出来ていたし、父は私が到着する前に涙を拭き終えていたようだったから、病室には張り詰めた悲しみは流れなかったように感じた。

亡くなったばかりの祖父の横たわるベッドを見ると、かけられた布団がまだ息で上下しているように見えた。自分は死を受け入れることができる柄だと思っていたが、何度見返してもそのように見えた。母にそう話すと、彼女も同じだったようだ。自分の眼というのも案外信用ならないものである。
その後看護婦によって遺体が整えられる間、家族一同病室をいったん離れた。再び入室して祖父の顔に白布がかかっているのを見た瞬間から、なぜだろうか、彼は「呼吸」することをやめてしまった。

私は人間は死んだらそれっきりで、ただの肉と骨になるだけだと常々考えていたが、ドライなスタンスもこうなっては腑抜けたものだと呆れてしまった。

出棺の際も似たようなことがあった。祖父が亡くなってからそれまで一度も泣くことはなかったのだが、出棺して火葬場へ向かう途中、涙が溢れて止まらなくなった。「死んだらそれっきり」なんて、心の奥底ではきちんと信じることができていなかったということである。死後も遺体にいろんな思いを重ねていて、ドライアイスで彼の体が綺麗なままでいた間に、私は実際のところ何の準備も出来ていなかった。棺の戸を閉める瞬間というのは、まだ整理のついていない彼への思いまで引き剥がされてしまうようで、今思い出しても不気味なくらいに悲しいものだった。

昔話

三日に一回は書こうといいながら、既に四日経ってしまった。なんと早いのだ、時間が経つのは。

昔話だ。

昔、今のようにブログなんてなくて、少数のホームページが幅をキかせていた(悪意ある表現かもしれない)頃を思い出すに、「ああ、書くことがない!書くことがないぞ!」と言うだけの「無」を千字程度に膨らました、中身のない更新がたくさんあったのを覚えている。しかし今となっては見ない。例をサルベージしてきて示すほどの情熱もないのだが、これは思い出補正でもなんでもなく、たしかに昔はそういう記事(?)が少なくはなかった。

昔はそれでも読まれた。巡回用のサービスも無く(嗚呼いたわしやはてなアンテナ)、ただアクセスカウンタがぶん回るだけの時代。アフィリエイトも無い、そんな時代になぜ毎日更新などという不毛なものに、あんなにも情熱を懸けていたのか、至極不思議である。別に読者の声が強かったと言うわけでもない。

とりあえず、今日はこれで終わり。酒が入っているので、あらぬことまで書かぬようにしよう。
そういえば、「酔って更新したから昨日は変なことを書いた」という更新も、結構あったのですよ。嘘ではなく。一億総炎上時代に、毎日更新はリスクが高いかもな。口が滑って犯罪でも暴露したら洒落にならない。口は災いの元だ。三日に一度でも多いくらいだ(マテ(藁(木亥火暴

近所のスーパー

近所のスーパーに行くと、いつでも「今でしょ」を絡めたポップが立っている。

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「今が旬のちょっとピリ辛なきゃら蕗」「いつ食べるの?」「今でしょ!!」

もう5ヶ月くらい使い回している。ちょっと前は鯖だか秋刀魚だかの缶詰の前に立っていた。というか、自分の不勉強かもしれないので強弁は出来ないが、蕗の旬ってちょっと前ではないのだろうか。春からせいぜい6月の上旬だったような記憶がある。きゃら蕗の旬も「今でしょ」の旬もちょっとだけずれているような気がしてならない。

このポップは切り取った絵が使われているが、今まではポップごとに毎回新しい絵が描かれていた。多分、店員に似顔絵が得意な人がいるのだと思う。新商品が入るたびに「西山さんの今でしょで良くない?」みたいに、まあ西山さんかどうかは知らないけど、そういう感じでズルズルと伸びた結果、語感も季節感もガバガバで流行遅れなポップが乱立するようになったのではないだろうか。

そういえば、この林先生の似顔絵で思い出したのだけど、私も小学生のころ、みのもんたのデフォルメした似顔絵が異常に上手だった時期があった。今となっては描けないが、確実に世界で一番デフォルメみのもんたが上手く、そして大量に描いたと言える時期があった。多分そのころの教科書を漁ったら、余白にみのもんただらけのものが出てくると思う。で、そうした絵に飽きてからも、友達に言われてみのもんたを描く用が多少あった。ちょっとだけ、林先生を描かされる店員に共感できる。

冷蔵庫チルドレン

バイトが冷蔵庫に入ったり材料を口にくわえたりした写真をネット上にアップロードして炎上している。らしい。問題にされるのは、SNSがオープンであることを自覚していないリテラシーであったり、あるいはそれを炎上させる人間たちのメンタリティーだの寛容さだのだったりするが、個人的には、そういう馬鹿をやる人間はもともとたくさんいたことのほうが問題だと思う。
いや、問題というか、それに気づいていなかった人々が気づいた、というところが大きいのだろう。「こんなものを見せられたら、他の飲食店でもやっているんじゃないかと思って気が重くなる」というコメントを見たが、まさしくその通りで、バイトにも客にも、裁かれない悪事を働く想定外の大馬鹿はたくさんいた。それが可視化された。
二度づけ禁止の串カツ屋で、本当にみんなが行儀良く二度づけをしないでいるかというと多分そんなことはなくて、しかしながら我々はそれくらいに目をつむって食事をしなければいけないのだし、醤油差しにはおっさんの鼻くそがついていて、図書館の本には歯間をほじくった指が何度も触れられていて、そういう世の中で暮らしているということを、より多くの人が自覚できた。
昔は多分(今でもそうなのかもしれないが)痴漢という犯罪も、そういう類のものだったのだと思う。「綺麗な女がいたから触ったった!すげー柔らかかった!」と、品のない人間同士が話題にするような行為だった時代があった。今でこそ立派な犯罪で、それこそ冤罪でも社会から一発退場を食らう可能性のある行為だから、まともな人間はしなくなったけど、昔は「ちょっとしたヤンチャ」程度のものだったのだろう。事実、「痴漢くらいで」と発する(年配の)人を見たことがある。「痴漢はアカン」とわざわざ寒い洒落で啓発しなければ人々はその重大さに気づけなかった。
ネットの使い方もいずれそうなる。他人や自分の人生を終わらせたくなかったら、悪事の自慢はやめよう。法とか理屈は後まわしとして、社会がそうさせていくのだろう。
正直者が馬鹿を見ている現実が露わになって、馬鹿を見た正直者の攻撃性も露わになって、馬鹿と正直者がお互いに身を守るために住み分けをし始めるような気がする。しかし、そうなればクソガキとチンピラはこれから本当に行き場が無くなるなあ。暴力団からも一般人からも刃物が飛んでくる状況で、彼らはどうするんだろう。森とか海とかに住み着いてヒッピーみたいな変なニッチを形成したら面白いなあ。