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ゆとるな

例えばはてなダイアリーにおいても自分と同い年平成生まれゆとり教育の申し子と呼ばれて久しい年代の人間が今日もこの空の下ネット上で活躍している。速射砲の如く若く美しい言葉を吐くものもいれば、水瀉便の如く無知で汚い言葉を書くものもいる。ちなみに後者が私にあたる。腸内環境の気まぐれサラダ。こんなことを書くから駄目なのだ。話を戻そう。その中にはバンドを組んで楽器を弾いていたり、美しすぎて逆にえげつない、高校生らしからぬ文章を書いたりする人がいて、そういうのを見ると凄く劣等感を感じてしまう自分がいる。何とかならないものかと思う。
自分は楽器は弾けないし人を文章で感動させることも満足にできない。リコーダーのテストの時には放精中のサケみたいな顔になったし、ここを読み返す度、自分の語彙の少なさに呆れ返る。ただ、劣等感を生じさせるのはその点ではなくて、言うなれば、自分の個性が人に誇れるかどうか、の点において既に負けている気がしてならない。


最近の教育に顕著に出てきた「 個性を伸ばす 」という言葉。ここでの個性ってのは多分そういう喜ばしい才能のことしか指さないんだと思う。美術、音楽、文学、スポーツ、その他社会のいずれかの場所において必要とされ賞賛されうるような、「 スキル 」なんていうエレガントな言葉に置き換えられるような、そんなものを指しているに違いない。親指がちょっと長いとか、そういうのじゃない。そもそも「 二重 」とか「 毛深い 」という「 個性 」をどうやって「 伸ばす 」んですか全然意味が解んないです。その時点で個性という言葉の意味がすっごい狭い。
私も当然個性を持っているし、昔はそれを丹念に磨こうとした。だけどコケを見てると幸せ、なんて言ったら絶対白い目で見られるし、虫歯の無いこの歯だって、透き通るような白ではないからお世辞にも綺麗とは言えない。だからここ数年、人に褒められない自分の個性が生ゴミみたいに思えてきて嫌になることが多い。


だから、学校は正直に「 人に褒められる特技を身に付けましょう 」と言ってくれれば良かったのに、と思う。「 個性 」という言葉でダラダラと自分を肯定し続けてきた小学校時代が忌まわしくて堪らない。自分を磨けなかった自分が恨めしい。今頃必死でスポーツに打ち込んで読書して勉強している自分が情けなくて泣けてくる。もっと他人に好かれたい。何もクラスの人気者になりたいのではない。ただ、自分のやりたいことを成すには、もっと信頼を得なければ無理だ。もっと信頼される人間になりたい。


分かったような口を利いて申し訳ないが、ゆとり教育と個性重視の思想はこの先どれほどの子供たちを酔わせ続け、損なってゆくのだろうと心配でならない。当然、才能ある人間は早い段階からそれを誰に言われずとも専一に伸ばしているのだろうけど、平凡な人間にも将来のヴィジョンを見据えさせる必要があるんじゃないか?
以上、年に一回くらいこういう愚痴吐いても良いよねのコーナー。