セックスを作り上げて撮るということ

Winampというソフトではインターネットテレビが視聴できるようになっているのだが、設定を弄ると成人向けコンテンツが視聴可能になる。ただし海外の、それもストリーミングで垂れ流すような代物なので大したことはない。だいたい40過ぎのオバさんか黒人同士の奇声コンペティションに仕上がっているので、鼻息を荒げる因子とは全く言えない。恐ろしいくらい興奮しない。小学生の時に見たクワガタムシの交尾と同じ感覚で見ることが可能だ。ブロードバンドの協力によって、私はアメリカ人の好むヴァーチャル・セックスの偵察衛星と化すのである。
特筆すべき点は何と言ってもオナニーだ。まずアメリカの男優は自らpenisをほじくったりしない。奴らは驚くべき速さで女優に忍び寄り、彼女達の曼珠沙華や菊の門を節くれ立った指でこじ開け、そこに唾を吐き入れるやいなや速やかに挿入しようとする。それは神業であると同時に、ロゴスの欠片も感じられない風致である。
対し、女優のオナニーは峻烈である。まるで難解な詩のように、一度見ただけでは理解の入り口さえ閉ざされたままだ。強いて言うならば、格が違う。簡潔に説明すると、穴に指を入れたりはしない。ちょうどワッキーの「 芝刈り機 」のような手の動きで表面を高速で擦るのである。画面いっぱいのスプラッシュ & スプレッド。カバの排便行為と同じシステムである。これは私の推測であるが、あれは音を立てるのに特化した方法なのだと思う。永久にピチャピチャやってる。奇声も上げながら、豪快に潮を吹く。録音して、ポストロックだの現代音楽だの適当に吹聴すれば売れそうなくらい壮絶なのだ。


ただ、たとえ国が違えど、AVというのは性需要によって作り上げられた塑像でしかない。だから私が目撃した喜劇は恐らくアメリカ人の性生活と合致しないだろうし、過剰な演出でもある。日本のそれも同じだ。
私が昔から悩んでいるのは、かつて人類が愛という概念を初めて持ったとき、行われたセックスはどのようなものであったのか、ということだ。現在、AVを模範的な性行為とする若者も少なくないし、心でセックスしなくなった人々を加藤鷹も憂慮している。人間的にニュートラルなセックスはもはやこの惑星には存在しないのだ。全ては文化やフェティシズムによって蹂躙され、快楽は愛から引き剥がされようとしているのではないだろうか。海外の性情報を見ると、余計にそうした悲しい気持ちになるのである。今日本にある性情報こそ、グローバリゼーションで耕すべき領域なのだ。そうすれば若者達も、全てのAVは幻想である、と己の性の認識を省みる機会を得られるに違いない。