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スリットの瞬間

私がバス乗り場でぼんやりとバスを待っていると、左隣に一人の男性が座った。特に気に掛けるべきところも無い、普通の男性だったように思ったが、私は別にすることも無かったので少し彼の方を見た。見た、と言ってもかなりライトな一瞬の確認だった。眼球の回転は、もともと視線を注いでいた道路の白線から30度ほど、そして視線と言うよりも視野によって、その隅に座っていた彼をかろうじて捉えただけであった。どうやら彼はずっと左手で口の辺りを押さえているように見えたが、それに関して興味が湧くこともなかった。私の視線は、目前に広がる田園風景に再び注がれた。


憶えず居眠りしてしまっていた。私は目覚ましに首を回した。そこで私は彼を、やっと視線で捉え、そして酷く震撼した。彼が口に当てていた左手…特に左手の中指のように見えていたものは、右の頬に10センチほど刻まれた大きな傷だった。ヨハネスブルグ、あるいは大阪府西成区や北九州では珍しくない、「 あの 」傷であった。ケロイドや瘡蓋などは無く、ペールオレンジに着色したシリコンを切ったような綺麗な切り口。痛々しさを感じさせない、すっきりした見た目だった。


よく漫画や映画などで、刀で身を断つときにその断面が描かれることがある。そこでは腕や首や腿の断面が、通過した刀身に気付いていないかのように、その内部をだらしなく晒している。当然、血潮はかなりの速さで全身を巡っているから、いくら一瞬で切ろうが血は既に出ているはずなのだ。だが、あの神奈川沖浪裏のように、次の瞬間には目も当てられないほど崩れてゆくものをさっと掬い取って描き上げたような、奇妙で無理があって儚くて、だからこそ面白い、そんな表現上だけのタイミングであるように思う。
彼の傷口もそういうものとして目に映った。彼は生粋のヤクザなのかも知れないし、食肉加工工場で鋭利なカッターを扱っているのかも知れない。ゴミ処理施設でブラウン管やスプレー缶と隣りあわせなのかも知れないし、すぐに包丁を持ち出すヒステリックな彼女が居るのかも知れない。だがそんなことは知らない。どんな経緯でスパッとやっちゃったのか、そんなことは関係ない。ただその傷口は、過去のある一点において、綺麗に切り裂かれたということを世界に見せつけていた。そう、傷口だけが過去の「 その時 」で止まっているような感覚。あるいは傷口が自らその瞬間を描き出していたのかも知れない。傷痕は静かなる皮膚組織に過ぎなかったのだが、次の瞬間には血がプシャッと噴き出しそうな危うさを湛えていた。三寸ばかりの傷はおっさんから完全に独立して、写真のように顔面に張り付いていた。


ふと目を下に遣ると、先ほど勘違いしていた幻の左手は膝の上で週刊少年ジャンプを支えていて、何とも可笑しかった。私は少し安心して、また風景をぼんやり眺め始めた。