数学は美しさを記述する。創造はしない。

センター試験終了、二次試験の接近と言うこともあって我々二年生も模試やら演習やらで様々な問題を解いたのだが、リアル、ネットともにかなりの高校生が「 数学は美しい 」といった類のことを言っているのを見た。
前から思っていたのだけれど、高校生や中学生が「 数学は美しい 」と軽々しく言ってはいけないだろう。我々が知り得る数学は既に証明されたことを追うものでしかないのだし、それは決して美しさではなく、「 正しさ 」である筈だ。


ここで調子に乗ったことを言わせてもらうと、特に理系学問における「 美しさ 」は謎の中に内包されているものであって、解明された瞬間から徐々に「 正しさ 」の中へ収束してゆくと私は考えている。


例えばDNAの二重螺旋構造。フランクリンがDNAのX線回折によって撮影した写真から「 なんかクルクルしてね? 」という予想が世界中で産まれ、その構造を解明したワトソン、クリック、ウィルキンスはノーベル生理学・医学賞を受賞した。彼らが論文を発表した時点では確かにDNAの構造は美しいものであったが、現在はそれが様々な研究の前提になっている。美しさにスポットライトが当たるのはほんの一瞬であり、正しさが驚くべき勢いでそれを追い越す。最近でも山中伸弥教授のiPS細胞生成の直後、我々が驚く暇も無く海外の研究チームがこれに追いついた。美しいなんて言って酔いしれていては乗り遅れる。
数学で言うと、ラマヌジャンフェルマーが変態じみた等式や命題を残し、後から他者の手によって証明されたという例がある。ここら辺の証明は中高生にも分かるものがある。これも、奇妙なほど美しい謎が先にあり、それに追いつくという過程を経て正しさの中に落ちた。
中高生が到達できる数学の深奥はせいぜい解明された正しさの内部であり、美しさを創造したいなら大学や壮絶な独学によってそのセンスを磨くしかない。逆に言えば、数学を「 教わっている 」以上、我々は美しさを獲得し得ないはずである。


また、「 芸術やデザインには数学が欠かせない。だから数学は美しい 」というのも同様に妙な話である。アートに対する、何世紀も前から続けられてきた数学のアプローチがその結果を数式として記述していると言うだけの話である。黄金比フィボナッチ数列はそれ自身が美しいのではなく、我々が美しいと直感的に感じるものに偶然にも合致するものだ。数学という学問は、我々の直感的な美しさや自然の妙技をきちんと記述することは出来る。しかし、数学によって新しい美しさを創造することは難しい。