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にらめっこの思い出

実の母に「あんたの顔見てると笑える」と言わしめた私にとって、顔面は沈黙しても猶強力なWEAPONである。にらめっこでは負けたことが無い。

にらめっこに関する最初のインパクトは、父に連れて行ってもらったバーベキューで起こった。父の会社の同僚とのバーベキューについていった折、父の友人の子供とにらめっこをした。私は当時幼稚園だったが彼は恐らく四、五歳ほど上だったように思う。にらめっこが始まると彼は無言で顔を近づけてきた。いよいよ甘い口づけまで迫ること焦眉となった時、ついに顔を逸らし噴き出してしまったので、あえなく敗北となった。


防御は最大の攻撃なり、とはよく言ったもので、にらめっこにおいても正しく同様である。笑わせに行くのは難しい。いくら顔を変えようとも、我慢できずに笑ってしまうような顔を作るのはある程度のポテンシャルエナジー(滑稽な顔面)が必要となる。難儀は、相手の笑う笑わぬを伺うようなテンションの中で自らを律することである。にらめっこでの防御は即ち人としての心の死を要する。この戦場にあっては、専守防衛も愚の骨頂であり、貝のような護りと受け流しこそが自衛を達成する。俺はドブ貝だ。冷ややかな濁水の中、死んだように生きる貝だ。こじ開ければ鼻を捩じ切る激臭が襲うだろう・・・


また、にらめっこの最中、目の前で顔を歪ませるのを見てこう考える。「ああ、こいつはこれが面白いと思っているのか…」と。時々テレビを見ていてもこのような失望に似た感覚に襲われるときがあるが、これはセンスを問うているのではない。彼の限界の表情が笑うに値するものでなかったということに過ぎない。誰しも経験的に分かることであるが、一般的な人の表情はやはり何処までいっても一般的であり、常軌を逸することは無い。だから年を重ねるごとに、にらめっこは幼稚でアンフェアで冗長になり、「子供の遊び」になってゆく。しかし実は自律を要する競技であり、双方が防御に入ればもはやこれは禅である。