ペニスの解放について

日本においてペニスに関する論議はことその最小値、あるいは妥協点をもって終結することが多い。「生殖器として機能するには3cmで十分だ」「清潔であれば包茎でも問題はない」との言説が、まことしやかに囁かれている。ペニスとして在るための十分条件の探索に余念がない。ペニスについて悩む男性たちは、これら言説に基づき股間についた軟肉管をペニスとして立派に定義し、それによって安堵する。


このように、現代の「日本的ペニス観」は自己の存在がある程度高い範囲に満足するように定義域を設定しようとする傾向を持っている。この点において、日本的ペニス観は結果の平等を目指すものであり、アダムスミスの時代の資本主義とは相対するものである。最も原始的な資本主義はそれ自身を裏付ける資本という定義域を正の無限大にまで拡張することで、富という結果を一部に集約させる人工的な関数である。対し日本的ペニス観は定義域を限りなくゼロまで拡張することで個々人のペニスを定立するものである。
現在日本では資本主義と日本的ペニス観とが齟齬をきたしており、これが日本経済の衰退を招いていることは明らかである。増え続ける貧困層が生活水準の保障を求め、これに便乗した非貧困層の市民までもが経済的な恩恵を国家に求めるのはまさに日本的ペニス観に基づくものである。これら「国民の声」と呼ばれるものには一部そうした不必要な甘えが含まれてきたが、これに関してペニスという観点から反省がなされることはなかった。しかしながら、着実に「一億総ペニシスト化」は進行しており、われわれ男性がペニスに対する見方を変える必要性があるということを認識していただきたいのである。


さて、先ほど日本的ペニス観は資本主義と齟齬をきたしていると言ったが、では社会主義に整合するものであるかと言えば決してそうではない。そもそもペニスに関して、機会・結果の平等は達成され得ないからである。ペニスの「機会」の平等とは遺伝子的な統制によって達成される物であり、これは優生学である。ペニスの「結果」とは、その目的である性行為を満足することと考えれば、その平等は国家によるセックス・プランによって達成される物である。これらは現代の国家では不可能である。つまり、ペニスという社会主義や資本主義といったシステムに組み入れることが本質的に不可能な存在を、既存の概念で捉えようとしたことがまず問題であったのだ。


ペニスとは圧倒的に自由な存在として、あらゆる価値観から逃れなければならない。この自由とは既存の「自由」を拡張した Extra-free ではない。さらに言えば既存の自由からも自由な Liberty-free であり、完全な Another として振舞う。しかしこれはペニスの無視ではない。あくまで評価不可能な存在として捉えるのである。これによりあらゆるペニスに関するコンプレックスは無意味となり、ペニスは意味上の均一を獲得する。これが「ペニスの平和」である。