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シンボルセックス

恐らく誰も共感しないだろうが、私は「綺」という字を見ると性的に興奮してくる。こればかりは自分でも理由が分からないが、綺という字は漢字としてのバランスと言いその意味と言い、どこか強烈な女性性を持っているような気がしてならない。「綾」では何かが足りない。これはどうしようもないことなのだと思う。学校で疲れたときなんかに、休み時間、電子辞書を取り出し「奇麗」の項の文字サイズをデカくして和む。買ったことが無いので分からないが、アイドルの写真集を眺めるのと同じ感情なのだろうと予想する。しっかしいつ見ても惚れ惚れする字だ。


逆の方向から考えると、象徴化、抽象化が可能であるからこそ、乳房やヴァギナやペニスや臀部やその他人間の身体というのは、その形状に性的な意味を付加できるのだと思う。私の場合は、ある文字(Symbol)から勝手に女性を想像したわけだが、逆の手順で性器や性的な印象を与える器官を簡略化して象徴化することで、ようやく我はエロティカ・セヴンなのである。シンボライズされた性器とは、例えば「♂」であり、便所の落書きであり、縦に書いた「WXY」である。
もちろんこれは極端な例である。
シンボライズがより分かりやすく実用的な形でなされたのが成人コミックにおける無毛の陰唇や少年誌における乳首の無い乳房である。シンボライズとは具体性を捨てることで、見る側の想像力の介入を受け入れることにもなる。だが、それは何も漫画に限ったことではない。服の上から浮き彫りになるニプルや屈んだローライズの間隙から覗くヒップを見る我々の脳はまさしく作家ではないか。ある程度具体的に、しかし必ず余地を残しながらTHATをイメージするではないか。一滴のロマン・ジュースが脳に零れたあの日から、我々の煮えたぎるφは居場所を求めて彷徨っているのだ。意識するにせよしないにせよ、男は想像力をどこかへと滑り込ませたくてうずうずしている。その偶発した結果が、私の先の異常性欲である。いや、うなじや太腿や耳や鎖骨や足の指、これら数多の異常性欲は、行き場を失ったイマジネーションが「脱走」した結果なのだ。身体への「意味付け」を最終目標として、我々は無意識に身体を抽象化しているのだとすれば、「シンボルからエロスを読み取る」ことと「女体をシンボル化する」ことはもはや可逆の思考反応ではない。「女体の知覚→シンボル化→意味付け→欲情」の不可逆の流れである。一度知覚された身体は脳という閉鎖系の中で定向進化を遂げ、時に暴走するのである。


このサイトを見て欲しい。


ponyXpress(リンク先非常に重いので注意)


セクシュアルなアートを扱うブログであるが、被写体となっている女性の身体は、あまりにも生々しく興奮できないのではないだろうか。ザ・女体、というインパクトがある。あまりにも具体的であり、現実的であるとき、我々はその対象を彫刻することはできない。完結しているからである。あるいはモザイク無しのアダルトヴィデオのあのグロテスクさを考えて欲しい。あれはもはや・・・訴求力を持った一種の威嚇である。グロテスクなのが良いと言う者もいるが・・・


しかし、「女体の知覚→シンボル化→意味付け→欲情」が興奮の一連のメカニズムとすれば、この反応系の途中から(特に「意味付け→欲情」の間)から開始される興奮も存在するということである。こうすると様々な性欲を上手く説明できる。グロテスクな女性器はシンボル化を受けないとしても、意識の根底で既に何らかの意味付けが完了していれば、あとは簡素なリアクターの内部でひとりでに心は踊りだす。