太田光とは触媒である

感情と感情をぶつけ議論し、お互いの矛盾や問題を暴いてテーマを昇華させる過程を化学反応に例えるならば、太田光は触媒に過ぎない。AとBが混ざり合ってCとDに変わる中で、彼はその反応を促進することしかしない。太田光を毛嫌いする人が多いが、彼を主役あるいは敵に見据えるからややこしくなるのである。彼は機能そのものであり、箱である。PにはQを返す装置なのである。


NHKで「爆笑問題のニッポンの教養」という番組が放送されている。私も毎週見ているのだが、彼はしばしば、学問の権威と呼ばれる人々に反発する。


「そんなことを続けても本当のことは見えてこないんじゃないか」


「そういう考え方が、そのうち大事なものを見落とす原因になるのではないか」


学問という、今なお多かれ少なかれ閉鎖性を抱える世界のなかで、正しいとされる論理に沿って物事を考えていたって本当のことが見えるかどうかなんて分からない。この視点は非常に重要であるが、いかんせん太田の言うことがトンチンカンすぎるために、大学の教授や専門家は強く反発する。特に素粒子物理や哲学、言語学、心理学に関連した回は、正直言って酷い。メチャクチャである。ある程度造詣の深い人々から見れば、彼の暴論よりも専門家の意見を聞きたいと思うのは当然であろうし、太田光が目障りに感じられるのも理解できる。しかし、もう一度「太田光は触媒である」と考えてみて欲しい。触媒は反応を活性化させる。穏やかな教授たちが、自分の論理の正当性を、全く「無知」な人間に説く。あるいはその魅力や有用性を、素人にも分かるように語り掛ける。圧倒的多数の門外漢が視聴するテレビにおいて、より求められるものはどちらかと考えたとき、あまりにも専門的な内容よりもさきほど述べたような内容の方がより必要である。また、「分かりにくいことを分かりやすく、魅力的に語る」ことこそ、知性や教養に裏付けられた高度な能力を要する。そうすることで、ある一つの学問に特化した内容よりも、(少なくとも大勢の人に伝える場合)よっぽど価値のあるコンテンツになるのではないだろうか。恐らく太田は学問そのものよりも、その学問を経て私たちがどこへたどり着くのか、を引き出そうとしているように思え、その意味で彼はあえてエキスパート達の感情を刺激し、怒らせるようなことを言うのではないか、と思うようになったのだ。


彼は反応を激化させ、手っ取り早く目的のものを出現させる触媒なのだ。


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彼にはもう一つ触媒との類似点がある。
反応の前後でそれ自身は全く変化しないこと。
良い意味でも、悪い意味でも。