都市とホームレス

心はいまだにトラクター小屋のそばの肥溜めと共にある新生シティーボーイとなって早くも一ヶ月が過ぎようとしているわけだが、馬鹿馬鹿しくも田舎者が始めて観察した京都を、「ありのままの、若々しい感性で」 ―つまり何の知識もないくせに物知り顔で(しかもそれを若さの特権だと言って)話そうとすると、さて何であろうか。確かにビルが多い、コンビニが多い、人が多い、ただそんなことは当たり前で、膨れ上がった生活領域を古びたアートスペースにねじ込んだようなこの町並みは興味深いものであったが、楽しむものであっても愛着の対象とはなりそうもない。目の前にあるのは歴史をめいっぱい吸い上げた麗しの古都なのだが、良くも悪くも現段階では「味わい深い物質」の集合のようなもの、そんな味気ない影がストンと落ちてくるだけであり何とも評価に困る。住めば都、住まざれど都。その巨大な全貌をこれから手作業でつなぎ合わせていけば、それはそれは酷い出来栄えの手編みのキョウトが完成するわけだが、むしろこの場所こそ、ようやく「愛着」の落ち着くところとして相応しいものになるのだろうと思う。


ただ、ひとつ大きな衝撃を受けたのはホームレスの多さであろうか、最近はトレーニングのため賀茂川沿いを走っているのだが、橋の下の住人たちがスケルトンの要塞を構えている。しかもいくつもある。あるいは公園の滑り台の下、雨を凌げるところどこまでも貪欲に追い求めて暮らす彼らの姿は、私の地元には無かった。
ふと、生態的地位という言葉が頭をよぎった。ある種が生息する範囲、環境のこと。消費する資源が重複する(生態的地位が重なる)二つの種は棲み分けや食い分けという生活様式を取るようになる。高校の生物の知識がまだ残っていたらしい。少し安心をする。
私には幸い家があるが、彼らには無い。家という形態をとる場所と、そうでない場所に棲み分けが起こっている。彼らと我々は違う種だから?
「まさか。」
「違う種」という言葉がやけに不謹慎で冒涜的であったことを後悔してふと言葉が漏れる。しかしそれとは別の、何か違う恐怖があることにも気付く。


再び当たり前の話だが、実家に住んでいた頃は居住スペースも食事も衣服も、それなりに必要に応じて購入ができたが、今は違う。京都は水道料金が高い。食費もできるだけ切り詰めるように言われたので、贅沢はできない。それでも手元に残るのは最低限の量(となるように仕送り額を制限されている)だ。これを親に恨むことは無くむしろ下宿を許されネットが使えるだけでも身に余るハッピーセットであるが、実家に居る頃には見えなかった経済という蟒蛇が、私の家をメキメキと絞め殺す準備にかかっているのである。混ぜ込まれた恐怖の一粒を摘み上げて写生してみると、こういうことになる。


自分が化け物の餌食になりうるという事実。新鮮であった。