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クロノノーシスとプリーツスカート

女子高生は見上げるものだった。
保育所にいたころ、なにやら背の高いお兄さんやお姉さんが来たことがあった。後からあれは中学生の職業体験だと知ったが、当時は小学生すら何者かも分からない粘土のような自我で、彼らが砂場やプールで見せる画期的な遊びにからだを放り出した。彼らはよく分からない、ただの大きな人々だったけれど、一人のこどもがどんなに求めても求めつくせぬ楽しさと希望を持っていた。
小学生になると、通学路でセーラー服や学ランを見た。中学生という存在は六年の先、あまりにも遠く、自分に無い大人びた雰囲気と鼻を突くような知性が漂う、計り知れない人々。かつて感じた放課後までの痞えるような苦しさ、旅行に行く前のせき止められた一週間、あるいは夏休みが終わる直前の、体を捩りたくなるような心臓の温度。それを何度も、何度も越えた場所なんて、自分のところには永遠に来ないように思えた。それでもいつの間にか中学生になってしまっていた。
その後中学生の私は高校生に、高校生の私は大学生に憧れを抱いていたはずなのだが、今の私に昔のような感情はなくなってしまった。憧れる人間はいる。でも違うのだ。恐らくそれは、身も蓋も無い言い方をすれば体の大きさが原因だ。あるいは堪能した人生の長さであるとか。120cmの少年が150cmの少年を見上げるとき、173cmの私が190cmの大男を見るよりも遥かに大きな存在の浸潤を感じる。同様に6歳の少年が12歳の少年を見上げるとき、18歳の私が24歳の院生を見るよりも深い恐怖を味わうだろう。老いるごと、大雑把な意味での生の密度が、私の見上げる人間たちのそれに漸近してゆく。
これは悲しいことだろう?
私はもう、セーラー服の人々を見上げることは無い。それは物理的にも、精神的にも、時間的にもそうだ。何かのきっかけで中学生の女性と話したときのあのくすぐったさを覚えているか。すれ違うたびの異質な匂いに大人を感じたあの幼さを覚えているか。言葉に絡み取られていない、宙ぶらりんの憧れと、細い管で繋がった未来が映し出されるあの眩しさを覚えているか。私は覚えている。だからこそ、自分が年を重ねるのがおそろしい。数ヶ月前まで自分も高校生だったというのに、すでに街行く高校生たちを同じステージの人間として見れなくなっている。未熟な未練が歯を食いしばってブレーキをかけているのに、彼ら彼女らをあっさりと追い抜いてしまった。
私は今でも、中学生や高校生を見上げたい。要領だけを余分に手に入れて、人を見下ろして、「分かったつもり」を踏み台にして霧のようなプライドを握り締めるゲームにはウンザリだ。女子高生を見上げたい。遥か遠くの、底なしに高い場所。決してスカートを下から覗きたいという意味ではない。精神的にも物理的にも、見上げたいのだ。ただ、スカートでは断じてない。そこは誤解しないでほしい・・・
スカートではない・・・