読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

愚痴02

ずっと書けなかった人権の話。怒られそうだけど書く。
ちなみに自分の体験を元に書いている。

学校で何度も(障害を持った方の公演などで)聞かされた「障害は私の一つの個性です」というのは、強者の言葉だと思う。あくまで個人的な意見だけど、人権教育が最終的に目指すべきは、差別を生み出す社会の構造を変えること、あるいは変える方法を教えることであるべきで、それは最終的には行動力が必要になってくる。だけど差別を受けた人々の公演で述べられる生き方や考え方は、私の経験では、差別が差別となる社会の構造に対する解釈であることが多い。その人たちの中では、強く生きるための哲学より前に差別を無くしたいという動機が先にあったはずなのに、後発した解釈だけがピックアップされることが多々あって、因果関係が逆転しているんじゃないかと思う。小学校や中学校で、アクションの部分を十分に「洗脳」できていない。
幼い自分が感じていた道徳の授業に対する違和感も、多分同じだとおもう。他人を救う・守るというアクションには、救われたい・守られたいという意識に裏付けられた動機が重要なんだろうけど、その「救われたい・守られたい」という原始的な感覚を全く自覚できていない状態だったから、道徳は身につかなかったのだろう。それは自分が幼い頃に大して苦しい思いをしていなかったからというのが一つと、自分の中の保護欲求みたいなものを自覚させる教育を施されなかったからというのが一つ。
だから、動機の無い状態の私に論理を身に付けることはできなかった。差別を是正しようという考えも、差別がなぜいけないのかという考えも、すんなりと受け入れることはできなかった。人権教育で学ぶことはただの情報としてしか捉えることができなくて、自分の生き方には反映されなかった。差別について考えようとは思わなかったし、他人の意見を聞こうとは思わなかった。だから、ネット上のナショナリズムやレイシズムに簡単にかぶれてしまった。正直に言いましたよ今。まあ中学校のときの話です。なぜなら、そっちの方が原始的な感覚にすごくマッチしたから。誰かを好きだと思う気持ちよりも、不平不満、嫌悪感、普通の中学生だった私にはそちらの方が自然な感情だった。差別されたくないという感情も、排外主義に加担することで容易に調和する。違和感が無い。もともとぼんやりとあった動機に、これがうまく結合したんだ。
だけど高校ですぐにガタが来た。部活の部長を任されたり*1、自分の進学や将来を考える中で、生産性や合理性を求められる場面が増える。そしたらもう国とか人種とかどうでもよくなった。解決すべき問題のためのパートナーとして人間を見れば、一々人格や素性を気にするより能力で評価するだけの方が効率がいい。それは自分に対してもそうで、日本国民としての自分、他人の悪口を吐き出す自分、全てをカットし始めた。ちなみに友人については何も理屈をはさまないことにした。何故一緒にいて楽しいのか、交際するメリットは何か、それは考えるだけ無駄だと思えたからだった。
そういう風に考え始めると、そっちの方が楽だと気づいたから、甘いナショナリズムと甘いレイシズムをさっぱりと切り捨てた。それに、傷ついたり追い詰められたりすることが増えたおかげで、自分の中の「救われたい・守られたい」という感覚をようやく自覚できた。
私はこのとき初めて人権教育を適正に受けるスタートラインに立ったと感じた。


じゃあ私と同じようにうっかり右向きに寝違える平成生まれを減らすにはどうすればいいという話になる。
苦しい思いをさせればいいかと言うと、そうでもない気がするんだよ。「若いときの苦労は買ってでもしろ」というが、体罰の問題と同じで、解釈の仕方によってはエスカレートする場合が考えられて、ちょっと怖い。
となるとやっぱり道徳教育は宗教や洗脳によって、論理を後から定着させるための骨格を作っておくのが楽で確実なんだと思う。


・・・結局結論それかよ!と今自分でも書いてて思ったけど、私の小学校から現在にかけての変遷を読んで、なにか解決の糸口を見つける方がいればいいなあと思ったり。ごめんなさい。

*1:この時我が部は過渡期みたいな状態で、解決すべき問題が沢山あったし、女子部員からかなり部の方針について要請があったため、精神的に結構キていた