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暴力の話

殺せる妹

私には六つ下の妹がおり、今でこそ仲が良いが(と兄は思っています)私が小学三、四年そこらで妹がまだ幼稚園にいた頃なんかはよくもめたものだった。私は私で妹の幼さを受け入れられないほどに幼かったし、妹は妹で当然まわりに気を遣うこともなく傍若無人にちゃんと幼稚園児であったから、取っておいた菓子を食ったとかプレステのコントローラー引っこ抜いたとかそういう些細なことでよく怒ったりしていて、私が手を上げることもあった。
そんなある日に、いつものように妹ともめた後に父に叱られた。父の言うことはこうだった。
「そろそろ妹を叩くのはやめろ。お前はもうじきあいつを殺せるようになるんだから。」
一字一句こうだったわけではないが、要するに道具無しで妹を殺せるくらいに力がついたときに、感情に任せて妹に手を上げたらえらいことになるぞ、ということを言われた。このあとしばらくは喧嘩になるたびに何度も言われていたように思う。

で、二十歳目前の私からみなさまへ、とはなしは続く。
この世は暴力で満ち溢れていて、誰しもそれから身を守ろうと考える。言い換えれば、自分が暴力の対象になることは誰だって一度は想像したことがある。暴力の形はいろいろある。銃弾が脳めがけて飛んできて避ける間もなく死ぬだとか、夜道で強姦魔に馬乗りになられるだとか、まあ言葉の暴力でも良い。それでその暴力を回避したり、反撃する術だって考える。ここまでは誰だってやることだし、やらねばならないことだ。
しかし人は加害者としての自分の暴力についてはあまり想像しないのではないだろうか。特に殴る蹴る押さえ込む、さらには折る千切るといった極めて原始的な暴力について、十分に想像を重ねた人はどれくらいだろうか。
私はごくたまにであるが、町を歩くときに、今の自分が今すれ違った人を殺せるかどうかについて考える。ちなみに私は現在大学でそれなりにハードなスポーツをやっていて体も鍛えている。京都のオシャレスポット(オシャレスポットとか言ってしまう)に顔を出すと、切り干し大根のような脚をした人々が沢山歩いている。格闘技に関しては素人なのでそう簡単に他人を物理的に支配することが難しいのはわかるが、それでも「多分こいつはまともに反撃できないだろう」というくらいに貧弱な奴は少なくない。こうやって書くと、自分が誰を殺せるかということについて自覚を深めることはちょいと野蛮な匂いがするものだが、どちらかといえば殺したいという欲望の方が厄介で、殺せるという事実については気づいているかどうかの差でしかない。さらには自衛に際する「反撃」という行動についても同じで、反撃の方法について知ることは問題ないけれども、「反撃したい」という欲望は非常にタチが悪い場合の方がおおい。

宣誓!我々選手一同は正々堂々と「ヒョードルは殺せないけどあいつはこの場で殺せる」ということをとりあえずいっぺん想像してみます!

選手宣誓が終わったので本題に入るんだけど、そういう想像をしてみて何が変わるかというと、殺人レイプ通り魔虐待エトセトラみたいなニュースに対する姿勢が変わる。あー、私は説明がへたくそだからまあとりあえず聞いてくれ。例えば無銭飲食。

容疑者「三日間何も食べておらず意識が朦朧としており、気づいたら店に入って注文していた。その後金を持っていないことに気づいてあわてて逃げた。今は反省している。」

「やっちゃいけないことだけど、気持ちは分からんでもない」と思う人もいるんじゃないだろうか。次は痴漢。

容疑者「満員電車内で被害者と体が密着した。薄着だったこともあり我慢ができなかった。」

けしからんですね。でも世の中には「目の前に良いケツがあればそりゃ触りたくなるに決まっている」とかいう男がいます。これを読んでいる人の中にも一人ぐらいはいるはずなんだ。私も実を言うと少しくらい共感できるところはある。ごめんな。痴漢なんか絶対しないつもりだけど。
でもこれが虐待なんかになると全く反応が変わる。「こどもが泣き止まないので苛立ちが募り殴った。」あるいは電車の中でいきなり乗客に殴りかかった男が言う。「私生活がうまくいかずムシャクシャしていた。誰でもよかった。」
こうなると途端に反応がおかしくなる。「同じ人間とは思えない」「こんな奴は死刑でいい」「キチガイは子ども生むな/外を歩くな」と。
ここでは前二つのような、日常的で分かりやすい欲望が引き金になっているような事件と目線が全く違う。自分とは違う世界の違う人種の違う文化を見るような目線で、「俺はこんなことをするわけがない」と思っている。そういうのを見るたびに、そんな目線で本当にまともな批判になるのかという疑問が頭をよぎる。人を殴るのも刺し殺すのもナイフを首に押し当てながら犯すのも、動機になっているのは非人間的な特殊な欲望ではない。だけど私たちは日常生活の中で実際に人間を傷害するという行為、あるいは傷害したいという欲望から著しく遠ざけられているから、妙に距離の離れた場所から社会を憂うようなことが起きる。自分の発揮できる潜在的な暴力と向き合えば、身の回りの暴力を違う高度から見れるようになるんじゃないだろうか。そうしない限り、アメリカ人がUFOの侵略にそなえてマニュアル作ってるのと大差ないように思うんだが。いや、それは言いすぎか。
この話、具体的に何が変わってどこがよくなるかというところまで考えを深めることはできていないのだけれど、長年自分の中でわだかまりとしてあったので書いてみることにした。


最後に母から聞いた話をすこしだけ書いて終わりたい。
かつて母は私に「虐待してしまう親の気持ちも分からんでもない」と漏らしたことがある。言葉も通じないうえに毎日ギャアギャア騒がれると叩きたくなるらしい。で、叩くとハッとするんだと。「えらいことしてしもた・・・」と思って急に申し訳なくなるのだそうだ。
DVの夫が、暴行のあとに人が変わったように泣きながら妻をいたわるという話はよくある。
感情的になると人間はけっこうな力で人間を破壊する。私は明日ひょんなことから殺人者になるかもしれない。
やっぱりそのまえにじっくりと考えておくべきじゃないだろうか。加害者としての自分を。