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ブログタイトルとハンドルネームを変えました/名前についてのまとまらないはなし

ブログタイトルを変えました。
旧タイトル「久保マムシ」は中学生だった私がつけたタイトルで、何が何やらわからないし嫌気がさしてきたので心機一転で何が何やらわからないタイトルに変えました。例えば自分のメールアドレスが中学のときに設定したまんまで thErE-is-n0-EnEmy-in-fr0nt-0f-mE@untara.ne.jp だったら恥ずかしくて外出を見合わせるでしょう。そういうことです。
あと気づいていた人もいるかもしれませんが、すこし前にハンドルネームも kubomi に変えました。ユーザー名を kubomi で登録しているサービスが多く、名前も kubomi に統一したほうが圧倒的に便利だから。


書いていて思ったけど、「ハンドルネーム」って言わなくなったなあ。
正直な話、もう自分にとってネット上の名前というものはどうでもよくなったという感覚があって、それはネットに魅力を感じなくなったとかチヤホヤされなくてふて腐れているとかの話ではなくて、単純に「名前なんてどうでも良くなった時代」にそろそろなじんでいこうかなあという決心、と言うのが一番ぴんと来る。インターネットはもう名前の必要のない時代に入ったと思いませんか?かつてのネット上の大きなムーブメントを少しくらいは見た記憶がある私にとって、今のオンラインのコミュニケーションってもう名前の価値がすごく薄いと感じているんです。まあこれ今更な論なのかもしれないけど、ついでだから書かせてください。

簡単に言えば、今後「kubomiが書いた」という理由で評価されるエントリはなくなるってことなんです。自分の文章に失望してるってわけじゃない。だけど昔は圧倒的に書き手にフォーカスされた評価の方が主流だった。それはコンテンツの探し方や楽しみ方が、今と違ったということも大きく関係している。探し方の点では、ブログやyoutubeやpixivみたいなものの登場の以前/以後という話になるし、楽しみ方の点ではRSSリーダーの登場以前/以後の話になるような気がする。あくまで個人的な意見だけど。
ブログのエントリーはだいたい一目見ればどこのブログサービスの下にあるブログなのかが分かるし、youtubeやpixivやmyspaceも一発で分かる。そこでは一つ一つの作品とそれを管理するサービスについては明確になっているけど、その中間にいるはずの作者はほとんど外観に反映されていないし、わからない。昔は忍者かロリポップかなんてどうでも良かった(フリーティケットシアターのポップアップは一瞬で殺意が起き上がったが)し、作者の特徴がデザインに現れていた。これは単純にデザインの自由度のせい、とも言い切れない気がするのは、一書き手としての自分を振り返ったときに、ブログサービスにスペースを借りているユーザーの一部でしかないという、ある種の「奴隷的な自意識」が、多くの書き手・作り手の中に芽生えた瞬間がどこかに存在したように思えてならないからです。気のせいかもしれないけど。消費の面でも、アンテナやRSSリーダーが発達していくうちに、リアルタイムに流れてくる断片的な作品たちの中に作者の影をさがすことをやめるのは決して人間の罪ではない。そうなるに決まっているんです。ましてやリーダー上で鑑賞して個々のPermalinkにはアクセスしない、なんて方法に乗り換えれば、いよいよ作り手に届く志向はきえる。私はけっこうこれを悲しんでいたのだけど、もう諦めました。楽しみ方のワン・オブ・ゼムに留めておいてメインはやっぱり高速消費・高速忘却を繰り返すようにしました。それは自分がそういうものの対象になったからです。目には目を、みたいな話ですが、「自分がそういうもの(高速消費・高速忘却)の対象になった」というのは何もこのブログに限った話ではなくて、そのほかのサービスもそうですし、なにより現実の生身の自分それ自体がありとあらゆる目線によってインターネット上の高速消費・高速忘却の対象にされているということです。これはもう「そういう時代だから」としか言い様がないんです。
冒頭の「名前の価値がなくなる」という話に戻ります。
消費のフォーマットの変化が、消費する側に作者を意識させなくなったという話は、裏を返せば以前は作者の価値を前提にしなければ作品を消費できなかったということです。というかテレビはまだそんな感じですよね。コンテンツの最小単位がせいぜい番組の中のコーナー単位にしかならないし、そもそもテレビのコンテンツの全体量がネットと比較すれば少ないから、消費の様式が変化できない。あの芸人、あの司会者、あのコメンテーター、コンテンツとしての価値が確立された人間を出さないと、語らせる(=作者のもつ価値を断片化する)ことの価値が保障されない。その点ネットは個々の作品の価値なんかは商業が絡んでいないこともあって、はなから価値が保障されていないことが前提になっている。だから作者の潜在的なコンテンツとしての価値など気にしなくてもよくなった。価値の低い作品なんて、もはやノイズではなくてメインストリームになってしまったから。そしてこの消費形態が定着したことで、価値の定義づけの順序がまったく逆になってしまった。この kubomi という人格がそれとして評価されるのは、あちこちに散らばったブログのエントリやtwitterのpostやはてなブックマークの内容なんかをかき集めたときに、その内容の有益さがある水準を上回っていると誰かが気づいた、その最後の最後なんです。それまでは私の名前なんか誰も気にしないんです。*1
そんな中で私が名前を kubomi にしたのはせめて見る人にとって分かりやすくしようという思いやりですよ。そしてブログタイトルを「マシバ}クンシッバ」というわけの分からんものにしたのは見た人の脳味噌に疑問符を移植するためです。要は名前を覚えてもらいたいんですね。このエントリ、何が書きたかったかは分かりませんけど、自己顕示欲が強いことだけはすごく分かりやすい。すごい。

*1:昔のテキストサイトやFLASHの界隈での消費のされ方は、まったく逆だったように思います。