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二十歳になりました

近畿の方言であると思われるが、青痣ができることを「しぬ」と表現することがある。
実に古い記憶――年齢にして七つ、八つを過ぎないくらいに幼かったころだと思うが――眠るため母とともに布団へ入ったときに、勢いよく母の腕を踏んでしまった。母はツッと息を吸いこんだあとに無言で痛みに耐えていたが、しばらくしたのちに口を開き「これは明日になったら絶対しんでるわ」とつぶやいた。
幼い私はそれが上に書いたような意味を持つ表現だとは知らず、腕を踏みつけたことによって本当に母の命を絶ってしまうのではないかと思い、青ざめた。よくよく考えをめぐらせばそんな程度で人は死なないし、母の口調が死を目の前にした人間のそれでないことはすぐにわかるもの、と今となっては思うが、当時の私は冷静から落ち本当に震えたのだ。そのあとしばらく震える声で「死なんといて」と連呼し泣きじゃくる私を母は笑いながらなだめていた。


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私は先月七月二十七日をもって成人した。自分が昔想像していたよりも私は子どもだが、毎年そんなことを言っていたような気もするから実はもう大人なのかもしれない。肉体は衰えていない。視力は右目だけ落ちた。
このブログは2005年の8月16日から綴られている。もう五年。よくやっているものだ。当時は中学生だった。少しだけナショナリズムにかぶれていて、Linkin Parkでロックを知った。勉強なんてからっきしで、地方大を出たら普通のサラリーマンになるつもりだった。そのころはその生き方に自信があった。少なくとも方向性は間違ってないと思った。音楽もロック以外は聞くものかと思っていたし、ライフプランも完璧だった。でもそんなことはなくて、愛国心なんて高校二年くらいで馬鹿馬鹿しくなって、散々嫌っていたエレクトロもクラシックも聴けるようになって、田舎の引力を振り切り京都まで出てきて農学なんかやっている。よくよく思い返せば、かつての私にとっては「なりたくなかった」自分になったわけだ。
多分このあとも人生の方向は二度も三度も転がるんだろう。ふと気がつくとなりたくなかった自分になっていたり、昔の自分に戻りたいと思うこともあるんだろうな。
死ぬことがどういうことか、なんて、じつは昔の自分の方がよくわかっていたんじゃないかな。
いまはあの恐怖も悲しみも分からない。人が「死にたい」なんて言ったって体は震えない。嘲笑すべき幼き無知のなかに、知を抱え込んだ自分の最も知りたいものが隠されている。
ほんとうに面白い。
真実に接近しながら真実を回避して、何の作用も持たない理性が完成する。真実を述べる術を持たないまま、野性の声が消えてゆく。こうして私は人と成った。