読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

丼をさらに美味しく食べるために必要なたった一人のクズ

どんぶり飯が出てくる。


上に載っている具をすこし箸で転がしたあと、食べにかかろうとしている箇所の上にある具をすこし端に寄せ、局所的に層を浅くする。箸を差し込む角度は丼の中心軸よりやや外傾ぎみで、具に対してより多くのご飯を掻き出すようにイン。空いたくぼみに残っている具を少量なだれ込ませ、同様の要領で半分くらいを食べ終える。すると、いつの間にかご飯よりも具の方が多いという状況が完成し、すこし幸せな気分になれる・・・


こういう食べ方をする人間はいつまで経っても貧乏根性から抜け出せないに違いない。そもそも具の方が多いのが美味しいという感覚を疑おうとしない。こういう人種はその染み付いた貧乏根性のせいで「始めはご飯を多めに食べる」という行動がルーティンワーク化していて、いつの間にか「ちょうどいいバランスになったところで切り替えて普通に食べる」ということが出来なくなっているのだ。そして「飯多めの一口」「具多めの一口」のいずれかを積み重ねるうちに、良い塩梅で食べることを忘れている。最後の最後に白米だけが残るということを恐れる余り普通の食べ方が出来なくなっているというのは、もはや狂疾ではないか。


この手の狂人は丼だけにとどまらず、カレー、サンドイッチなども同様に食べるのであろう。コンビニのおにぎりは具から遠い三つの頂点から先にかじることで"Y"のような形にするはずだ。クリーム付きのコーヒーゼリーもわざわざ最後にクリームを残すに違いない。あるいは「よく振ってお飲みください」と書かれているジュースもわざわざよく振らずに飲み始め、最後に様々な成分が沈殿している濃厚な部分を満面の笑みを浮かべながら飲み干したりすることもあるだろう。まったく精神を病んでいる。


さて丼に関しては、「混ぜる」という、さしあたり最も有効な解決策が存在している。具とご飯がある程度均一に混ざればどこをかきこんでも同じ比率で食べられる。しかしながら日本では、例えばカレーを筆頭に「混ぜる」という行為に異常な嫌悪感を示す人間がいる。チャーハンや雑炊などを考えれば、白米全体に味を行き渡らせることは食べる者にとっての当然の権利だともいえるが、みっともないだの汚いだのわけの分からないマナーを押し付けられるのがこの国だ。病院に見舞いにいったらその日がたまたま仏滅で、病人然として寝込んでいた爺さんがそのことに関して突然イキイキして憤怒し始め、そんなもの知るかと跳ね除けるやいなやご唱和ください、「郷に入りては顔面性器の森田剛」と同調圧力がかかって翌日から町内会によりブログがGoogle八分にされる始末である。ならばすき家で丼をグチャグチャに混ぜ始めた瞬間に隣の客と口論になって、山かけまぐろたたき丼の上に載っている解凍が不十分なマグロミンチの円盤で殴り殺されてしまうことくらい、簡単に想像できるだろう。


ではどうすればいいのか。これに関して私がたどり着いた答えはこうだ。


上に書いたような醜い食べ方をしてしまうのは、ごはんの量が未知だからである。つまりこれに対する解決策は一つ、ごはんの「見える化」に他ならない。つまりご飯の上に具をかけるのではなく、具の上にご飯をかけてもらえばいいのである。


これぞ「気づき」であり、イノベーションであると踏んだ私は「生産性の高い人が日常的にやっている8つのこと」に書かれていた「発想をすぐに行動にうつす」にしたがって深夜のすき家に入り、具とご飯を逆転させるように注文したところ、「申し訳ありませんが当店ではそのようなことは受けかねます」という旨のことを伝えられ、心の中で「この社畜が!」と毒づきながら普通に注文しなおし、「3種のチーズ牛丼」を食べた。後半に具がやけに余ってしまったので、すごくしょっぱかった。