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旧世界の車窓から

彼女と家に帰る途中だった。
午後6時過ぎに大学を出てバスに乗ると、運よく降車客と入れ違いで、二人並んで座席に座ることができた。最近彼女と会うときは、交代で夕飯を作るのが決まりになっている。その日は私がホストで夕飯を作る日で、ビーフシチューの予定だった。あんまりいい肉は買えないから、下ごしらえをして冷蔵庫に入れてある。ワインのセレクトは彼女に任せた。
彼女はその日あったゼミの話を切り出して、教授の罵倒に励む。木曜日の家路はこうと決まっているので、私はうんうんと分ったように頷いてみせる。


バスに揺られていると、一人の男性が乗ってきた。男性は三十代半ば、少し太めで額が大きく禿げ上がっており、ほんのりと汗をかいている。やたらと短い短パンから伸びる脚は太い毛に覆われている。
男は私たちの前に立ってつり革に捕まっていたのだが、一分もせぬうちに膝をガクガクと震わせ始め、重力に対して不自然に過敏な動きを始めた。


「うっうっうっうっうっ」


目線を私の両目に注いで彼は突然口を開いた。この口ぶりには覚えがあって、小学校の頃同じように重度の吃音を持った少年がいたのを思い出した。しばらくして(恐らく時間にすれば数秒だがバスの車内には無限の静寂が流れた)彼の口はようやく整文にさしかかった。


「馬町のババス停でおおお」
「降りますから、すすすす」


「座ってもいいい、いいですか」


冷静になると止まっていた呼吸はいきおい持ち直されて、すぐに私は彼の単純な要求を理解した。


「あ、どうぞどうぞ」


「ああ、ありがとうございます」


私は立ち上がって男に席を譲り、バスの車内の緊張は解かれて、少し不機嫌そうな彼女を除けば元通りの時間が流れ始めた。彼のシャツは外気でかいた脂汗と先刻のやり取りでかいた冷や汗でじっとりとしていて、座席の端ににじり寄った彼女の腕をなおも僅かに濡らしている。


男は席に着くとすぐに目蓋を重たがった。そして首の力が抜け始め、カクリカクリとゆれ始めた。ここまできて、彼女の表情はさらに曇る。なぜなら彼が完全に眠りに落ちたとき、彼女の方に寄りかかるであろうことが容易に想像されたからだ。彼女も横目でそれを察知したのか、露骨に眉をひそめている。


(かわって!)


「生理的にムリ」というヤツであろうか、彼女の限界に達したようで、こうもなれば立つが強情座るが紳士という事態である。私は彼女と交代して男の横に座り、案の定男の頭を肩に乗せることになる。


せいせいした顔の彼女を見届けた後、不思議なものが見え始めた。横にいる男の夢である。バス内の風景が時折霞み点滅し、どこか見知らぬ風景が見える。私が眠りに落ちようとして、夢に半身乗り出しているだけなのだろうか。いやしかし、私の夢にしてはあまりにも見知らぬ風景だ… そしてその風景はより一層鮮明になり、匂いや痛みまでもが視野に差し込んでくる。


夏の夕暮れで、鉄橋のようなものが見える。森のなかで、小川が見える。沢?


匂いは懐かしいが、見たこともない様な蟹がいる。鋏は紫だが足の節と目が黄色い。つかんで持ち上げると腹に卵を抱え込んでいる。ポケットに蟹を入れて沢を下って、谷の深い方へ進んで行く。谷の奥は暗くて怖いけど、友達がいるから安心だ。


すぐ横にまた同じ蟹がいる。この蟹も卵を抱えている。またポケットに入れる。しゃがみこんで、辺りでカチャカチャと歩く蟹を夢中でポケットに入れてゆく。


そんなことを繰り返すうちに、陽が落ちてきた。友達が急に帰ろうと言い出した。谷を上り始めると、股の辺りに違和感がある。ポケットに手を入れるとザリザリと妙な感触がある。手を抜くとそこには米粒大の蟹のこどもがびっしりと蠢いていて、あまりのグロテスクさに驚いてその場に倒れこんでしまう。友達はどんどん谷を駆け上がっていくけど、私は腰が抜けてその場から動けない。声を出そうにも、何かが閊えて声が出せない。そうしている間に蟹のこどもは私の両足を覆い隠すまでに広がり、そして…


夢から醒めると、私は自分が大声を浴びせられているのに気づいた。大声はさっき私と交代した彼女から発せられていた。


「すいません!すいませんけど!ここで降りるんじゃないんですか!?」


バスは馬町に着いている。下車を知らせるボタンは押されていて、運転手は困ったようにこちらを見ている。何のことか分らず辺りを見回すと、横の席では私がこちらを見ている。目線を下にやるとガクガクと震える毛むくじゃらの脚があり、手を頭にやると前髪がない。窓ガラスを見ると、吃音の男が写っている。


「あなた『馬町で降りるから座らせてください』っておっしゃってましたよ」


横にいる「私」はかつての「私」のままの口調で話す。


「あなたの家は存じ上げませんけれど、寝てる間大声で唸ってらしたし、もう降りられた方がよろしいわよ。迷惑ですし」


向かいの席から初老の女性に高圧的に下車を強要され、慌ててポケットをひっくり返すが、金がない。私は魂だけ吃音の男に乗り移ったようなこの現実を受け入れられないまま、降車口に向かう。運転手に目を合わせるも、何かが閊えて声が出せない。
運転手に「もうええもうええ」とあしらわれ、会釈をして逃げるようにバスを降りる。


かつて「私」だった大学生が、私が座っていた位置につめ、横に彼女を迎え入れる。
ドアは閉まり、「私」を乗せたバスは走り出した。