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インターネットの文体

文体というか、いわゆる「あの頃のインターネット」というか、それは自分の場合テキストサイトのあの頃から存在する趣の話になる。
テキストサイト界隈における時系列やスタイルの興隆を語ろうとすると特定のサイトを指標にする必要があるので(そしてそれは望まれないので)詳しくは書かないが、どこかでおおかたのサイトが「垢抜けた」時期とそうでなかった昔があって、後者に蔓延していた文体が失われたということを嘆く人は居る。その文体は常に竹槍を構えるようで、空回りしていて、貪欲で、くどい。だけどそれが当時は格好良くてスタンダードだったし、そういうのを書きたくてネットで文章を書き始めたという経緯が私にはあるから、これを否定するものではない。だけど今になってみれば、「童貞の演武」こそがインターネットのすべてだった。今でも大好きだけれども。

そういう精神性や文体は、果たして「衰退」したのか。あるいは現存するそれは過去から「受け継がれた」ものか。
それは違う。
私はブログだろうがツイッターだろうがああいう文体は慢性の病のように未来にも蔓延ると思う。

ツイッターには一日に厳選された呟きを数回しか投稿しないことでセルフブランディングをする面白おじさんが大勢いる。誰とは言わないけど、その投稿からは古のテキストサイトの香りがする。なぜだろうか。厳選しているからだろう。

自己愛に基づいて自分が何を書くかを取捨すれば、その香りなのだ。面白いものを温めるということ。アーティスティックな創作でもロマンチックな囁きでも何でもなく、ただただ面白い人と思われるためにネタ溜めて書くという行為が、筆圧を大きくし言い回しや場面転換の密度を過剰に吊り上げる。比喩は正義で語勢はフルオン。それは渾身の長文ネタをHTMLで打ち込んでいたかつての人たちの士気と、そんなに変わらないような気がする。

人は「面白い人だと思われたい」と思ったその日から、自尊心を際限なく肥大させ、そのうち一部は本当に面白い人になっていく。そして面白くないものを書くことを恐れるがあまり、毒にも薬にもならない言葉の端から順に仰々しい刺繍を施すようになる。それこそが当時の、「あの頃のインターネット」の文体なんじゃないか、そしてその条件下では人は誰しもテキストサイトを追体験するのではないか。そう思うようになった。しかし毒か薬かを判断しなくてもよい(するための猶予をインターフェイスが与えない)ようなサービスが増え、「必ずしも面白くしなくてもよい場」を次々に与えられた結果、それは相対的に霧消した。そのことは紛れもない事実だと思う。