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これじゃない


新しいプリキュアのエンディング。
これ凄いんですよ。モーションキャプチャとかで人間の動きを忠実に再現しているんだろうけど、それにしても人間的すぎる。それに手書き風の質感とかも、これどうやっているんだろね、現場では普通に再現可能な技術なんだろうか。特に1:03あたりのアップなんかは全然破綻してなくてドキッとした。とにかくアニメ的な描画できわめて生物的な動きをしている、その点では今まで見た中で最高のように思う。


でも同時に、この方向でいいんだろうか、という疑問もある。例えば髪の毛なんかを、今みたいに部分的にモジュール化したものに物理演算を適用するんじゃなくて、もっと細かく毛の一本一本の空気感まで再現するとか、衣服や装飾品なんかももっと柔らかく現実に近い動きをさせるとか、それこそ蓮舫が潰しかけたスパコンなんかを動員してゲロを吐くレベルの過酷なレンダリングをやれば良いと思う。限りなく三次元の現実に近い二次元の女の子が跳んで走って食べて寝て泣いて。ただその先に僕らが求めた美少女は居るんだろうかっていうと、ちょっと疑問なんだよね。


我々がときめいているのは多分「人間的なキャラクター」ではなくてあくまで「人間をキャラクター化した何か」だと思うんだよ。髪はボリュームがあってふわふわしててほしい。足は長いほうがいい。目は異常に大きくてウルウルしててほしい。できるなら60fpsで動いてほしい。だから別に数学的に物理的に正確な運動をしたからと言って、よりときめくわけじゃないと思う。多分これまでもどこかで重心の破綻や、物理学を覆すスカートの力学や、筋量を凌駕する高速運動みたいな、そういう非現実的ながらもお約束みたいなものが脈々と受け継がれていて、それの総体が萌えの対象になっていたようなところがある。「人を(都合良く)擬人化してできた、人ではない何か」のような妙なものがアニメの美少女であって、人間的な動きっていうのは、どこかで部分的に削ぎ落されていたんじゃないかな。


ここまで書いて、こういう文句ってのは昔からずっとあったんだろうなとも思った。より先進的でテクノロジカルな手法で既存のものを表現しなおしたら、「これじゃない」って言われるような現象。小説の映画化なんかは典型的な例で、原作を知っている人間ができた映画をまともに褒めた記憶がない。人間が想像力で補完した部分の作用は、技術では再現できない、ということなのだろう。初代ドラクエをやった人間が最新のドラクエをやって「なんか違う」と言うのは、思い出補正の他にそうした作用もあるということか。
発達した文明による古典の再表現は、必ずロスを生じる。しかもそれは、古い方の表現を接種した人間にしか観測されない。
文明の呪いだと思う。


人間の感動や熱情の中には、来るべき技術の進歩によって寂しき「損失の輪郭」を与えられることが確約された部分がある。過去に感動した何らかの物語が技術的に映像や物質そして十分に再現可能だという時代が来たとき、我々はどこかで「こんなんじゃない…!」を感じなければいけない。結局最後まで再現できなかった、あれは何だったのだ、という感情とともに、墓場に道連れにせざるを得ない感情があるのだ。当然現在の感情にもそうした部分が存在するわけで、それをもっと日頃から意識しなければならないのかもしれない。


「これは面白いぞ」というストーリーを思いついても、いざ書いてみると全く面白くないというのは、文字という文明の呪いであり、それは他人の頭に電極ブっ刺して意識を共有するような時代にならない限り、映像にも画像にも音声にもついて回る天罰なのだと思う。