「自殺するな」はおかしい

自殺を、何か「一線を越える」ような言い方をするのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。


苦痛に対する肉体や精神の反応は自殺以前では連続的で、内分泌系や神経系の異常であったり、行動範囲の縮小や生活リズムのズレだとか、ポンとどこかへ跳び抜けるような変化ではない。それは原因の苦痛自体が連続的に変化するものだからなのだろう。自殺もそうした連続的な変化の終端でしかなくて、独立した特殊な現象だとすることには違和感がある。
多分昔は来世だの地獄だの「死後の苦痛」みたいなのが想定されてて、死んだ後も苦痛と快楽の無限のグラデーションがあったんだろうけど、結局死んだら何もなくなるってことになったから、死を恐れなければ無敵になるし、死という一点で門番みたいなことをやることになっている。


そういえばちょっと前に政府が「GKB47」ってのをやろうとした。ゲート・キーパー・ベーシックの頭文字だ。「命の門番」という意味合いらしい。
自殺志願者は地獄の門までパラシュートで降りてくるわけじゃない。門の向こうにある(と信じている)無痛に向かって人格を擂りながら何年もかけて歩いてきたのだ。それを追い返すのは、富士の八合目で登山者を突き落とすのと何が違うのだろう。


自殺を罪や害だとなじることは、たとえそうした観念が蔓延すれば自殺の抑止力になるとしても、絶対にすべきではないと個人的には思っている。自殺を止めるだけで得られるものは、数字上の人口だけじゃないのか。自殺へ向かうその道を歩ませないこと、生き残ることを確約された人間がその努力をすることこそ、議論すべきことじゃないのか。


いい加減、死にたい人間に道徳や法を撃ち込むのをやめなければならない。


自殺の寸前で引き返した人間は「生きていて良かった」と言うだろう。苦痛を乗り越えた人間は「生きていればいいことがある」と説くだろう。だけどそれは苦痛の真っただ中にいる人間には届くのだろうか。彼らにとっての「いつか来る幸福」と「自由に実現できる無痛」は、どちらが魅力的なのだろうか。私には天秤に掛けるまでもなく、後者しか見えなくなるような気がする。