食についての雑記

実家では祖父母の暮らす家と両親妹の暮らす家が二つ、同じ敷地にある。長期休暇前や土曜日の半日授業で早く家に着いたときは、よく祖母にご飯を作ってもらって隣の家で食べた。祖母は料理に熱心だった、と思う。素麺つゆの出汁は必ずいりこ・昆布・干し椎茸から取る丁寧さで、確かに美味しかった。そうやって祖母と食事をすると、時々母に対する小言も出てくるもので、表面化はしないがうちにも嫁姑の確執があったりするのだろうかと、子供ながらに不安になったものだが、幸いこれまでそんなことはなく平和は保たれているようだ。
母も料理は上手かったと思う。もっとも、その手間や苦労を省みられるになったのは一人暮らしを始めてからで、実際自分で作ってみると人が作った料理にケチはつけられないと痛感したし、母がどれだけ料理が上手で、逆にどういう料理は苦手だったのかよく分かった。父も料理は出来た。普段から母の代わりに作る習慣は無かったが、母が病気になったり不在のときは食卓に父の料理が並んだ。切る煮る焼く、とにかく標準的な料理の技能は持っていた。
大学に入ってから、少なくとも男については、まともに料理の出来る者の方が少ないことに驚いている。先日友人と料理をする機会があったのだが、彼は干し椎茸を戻した汁をシンクに即流しした。私は驚き合気道の達人のような足さばきでそれを阻止したが、彼はむしろ私の動きに驚いたようで、つまり「干し椎茸を戻した汁はいいお出汁」なんてのは普通知らないらしいのである。理系の端くれとして、椎茸にはグアニル酸がたっぷり入っていてかつ干すことで細胞壁が破壊され戻した汁にはそれが沢山入っているんだ!と力説。しかし彼は「別に美味しいと思わない」と日本人の旨み感覚を足蹴にしたので、USA舌のハッピーセット・チルドレンには偉大な椎茸の旨みが分からんだろうと憤りビラビラに戻った椎茸を女性器に見立て旨そうにクンニをしてやった(美味しかった)。
しかし干し椎茸がすなわち美味しいというのも、食文化が変われば当然失われる感覚なのだろうと思う。かつて中国に渡った僧が現地の僧に干し椎茸をせがまれた(くらい、干し椎茸は美味である)という逸話があるが、僧は基本的に精進料理しか食べないため味覚が研ぎ澄まされていた、飢えていたという前提ありきの味覚の話でもある。日本はなんだかんだで長く仏教の国であったから肉食が盛んでなかったため、そうした旨みに特別敏感なだけであって、肉を煮れば旨みなんてものはほぼ無尽蔵に出てくるから欧米の人間は旨みなんてものにわざわざ名前を付けなかった。対して日本はハイカラなドヤ服で牛鍋をつつく様が文明開化の象徴として教科書に登場する。そんなことだから戦争に負けたのだ。子供の頃からハッピーセットを食わねばシリコンバレーには勝てないし、スープのためだけにアワビを殺さねば中国人がチャリで海を渡ってくる。そういう時代なのだ。
話を戻すと、やっぱり幼少期に何を食べたとか、調理の場を見聞きしたとかの経験が味覚に及ぼす影響は大きいと、自分の家庭環境なんかを思い出しながら、考えていた。祖母と囲んだ食卓には卯の花や糠漬けが出たこともあったが、子供の私はそれを美味しい美味しいと言って食べたのかというと、やっぱりハンバーグが食べたかっただろうと思う。でも一方で子供の頃私は、そういう食べ物を「大人の味覚」だと思っていた節があって、卯の花に糠漬け、昆布巻きとか獅子唐の煮浸しとか、そういうおばあちゃんの家で出てきそうな料理を食べて美味しいと思えることがカッコイイと思っていた。今でもそういう和食や「古い」料理は好きだし美味しいと思うが、ではアメリカ人にとって昆布巻きが美味しいかというと、ヌメヌメした謎のシートでボソボソの魚とゴボウとかいう木の根みたいな土臭いモノがロールされていて正直ジーザスなシロモノだと思うに違いない。子供にとってもたぶん同じで、昆布巻きは和食で、おせちで、大人は喜んで食べるというところを見せないと、普通は不味いと思う。
食育というものがあるなら、その意味でそれは「本当に美味しいのは何か」を伝える行為ではなく、むしろ多様性保全のような考え方をした方がよいのだろう。つまり日本食とはこういうものがあり、今の君たちはハッピーセットやハンバーグが美味しいと思うかもしれないが、大人はこんなものを食べていて、これも美味しいんだよ、ということを教えればよい。間違ってもファストフードやスナック菓子が体に悪く和食は体に良いなどと言ってはならず、落雁を食い続ければ糖尿病になるしサブウェイで野菜多めのサンドイッチを食う方がよほど健康で、この例は極端にしても、食育で食に善悪をつけるのは宗教教育と同じ危険を持つのだと思う。濃い味付けを悪とすれば《素材の味》教へ導かれ、しかしながら放置すれば一日三食ラーメン二郎を平気で食ってしまう豚が出来上がる。進化上、舌が濃いものを求めるのは必然で、そこには宗教を用いない道徳教育同様の教育の介入が必要なのは事実であり、このままではやがて和食は駆逐されてナースコールでピザが出てくる時代がやってくる。