本当とは何か

Twitterでこんな画像が流れてきた。

悲喜こもごもあるのが本当の人生とでも言いたげな立派な画像だが、魔法カード「何も言ってないのと同じ」を発動し墓地へ送り、そのままケツを拭く紙にするのが良い。そもそも「本当」とは何か?偽りの人生などどこに。
「苦しいことの後には必ず幸せがやってくる」、なるほど転じて「止まない雨はない」と仰るがしかしイギリスでは野菜が満足に育たぬほど雨の日は多く「雨に歌えば」作家の夫人は犯される。正しく生きれば結果はついてくる、良いことをすればどこかで見ている人がいる。勇気づけられる言葉だが例外はある。生まれた時から人生が黒塗りの子供はいるし、何の苦労もせず成人する神童は確かにいる。何も起こらず何も感ぜられずただただ灰色の人生を送る者がおらぬだけで、全ては均一でありえないという統計的な「本当のこと」があるだけだ。悲しみの最中に居れば、上の画像はその人生を「本当の人生」と言って勇気づけてくれるだろう。無神経で無慈悲なこの世界に生きる私こそが「本当の人生」の謳歌者なのだと、それはさぞかし誇らしいだろう。そうやって何が真で何が偽か、苦を正当化し楽を演繹した先に陥った老人はただただ傲慢で、「人生楽ありゃ苦もあるさ」「涙の後には虹も出る」と水戸黄門の挿入歌に涙する。
お題目を上げ続けたものの残念ながら殉教した受精者に断言するが、この世で本当のことと言えば美しいものなど何もない。公理から1+1=2があり運動方程式があり、本当のことを積み重ねて導かれる人間の「本当の姿」があるのだとすれば、それは高々「人は必ず死ぬ」ということと「他人は自分ではない」という二つくらいしかない。
人は死ぬ。遅かれ早かれ後も先もない肉になる。それを否定すればカルトに走り、抗えば恐怖し喚き攻撃する。他人は自分ではない。最終的には他人のことは分からず、分かってもらえず、分かりあえない。それを否定すればいらぬ節介を焼いて人を殺し、抗えば洗脳が万能薬に見える。科学が発達すれば不老不死が実現し、脳がネットワークに繋がれ統合的な集団的意識が生じるだろう。その世界には、大袈裟でも何でもなく、もはや人間についての本当のことなど一つたりと存在しなくなる。
本当の人間のあり方などというモノが万が一美しく見えた時には、宗教に足を突っ込んだと考えてよい。宗教は不死(死後)と統一(融和)を担保する。