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雷親父考

  • 昔からネット以外でも言わなきゃいかんことは言うタイプの人間だったと自負していて、俺が言わなきゃいけないとか、そういう妙な使命感を勝手に抱いたりするから、中学の時分からブログなんていう痛いことをしているんだけれども。「死ぬ前に後悔する**つのこと」みたいな記事によく挙がることにも「自分の感情をもっと表現する」とか「意思をはっきり伝える」とかがあって、思ったことを素直に伝えることが出来るのは、むしろ少数なんだろうなと感じた。


  • 言いたいことを言うのはネットでは楽(だと思っている(のは、古いリアルタイム性の低いインターネットのイメージがあるからで、twitterとかチャットとかだと、「間」の概念とかが既にリアルと同じなのかもしれない)の)だけど、現実だと角が立たないようにとか、人に合わせて言い方や表現を変えないといけないから面倒くさい、ということで、「ブログ書けばいいじゃん」ってリアルでも結構言ってる。ナラティブで精神を整理云々ではなく単純に脳内から表現をサーチしてソートしてデストロイしてローンチする速度が、やっぱり日記書いたりしてる人の方が早いと思うのでブログを書けと言う。ブログを書いて人を殴ろう。


  • 表題の件に移ると、「昔みたいに近所に雷親父がいて叱ってくれる場面が現代にも必要」だとか「昔は怖い先輩が居て現場がシャキッとしてた」だとかの説を聞くと、私はウンザリする。大概、言いたいことが言えない自分の不甲斐なさや、蓄積する不満が改善されない場の打開策を、脳にフィルターの無い狂人に託しているだけに思えるからだ。私の近所にもクワを持って追いかけてくるイカれ親父が居たけど、本当にあんなのを望んでいるのか、と思う。ブレイクスルーを破壊的な「怒り」に求めるしかないスクラップアンドビルドな精神が、非実在雷親父や非実在鬼軍曹を生み出し人の心にそれらが棲む。そうなったらそこに自分がいなくなる。


  • 怒ることと謝ることにもっとシビアになろうと感じる。よく怒る人は単純にクソだし、やたらに謝る人は卑屈だ。憤怒や謝罪はレアであればあるほど訴えかける力が大きいし、経済を無くした感情はもはや手段にならない。もし近所に雷親父が居たら、「まーた怒ってるよあいつ」で済まされる。実際私の近所に居たよく怒ってる親父は、子供から「おいあいつなんか言ってるぞ」「無視無視」ってな感じで嘲笑されてた。子供ってそんな感じでしょ。雷親父待望論は積もった思い出補正の生み出した幻影。叩き売りの怒号には何の力も無い。