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オオカミ少年の教訓

俗に「オオカミ少年」という単語で連想される有名な寓話がある。タイトルは「嘘をつく子供」「羊飼いの少年」あるいはそのまま「オオカミ少年」であったりする。羊飼いの少年が狼が来たという嘘を触れ回って村人にいたずらをしていたところ、次第に彼のいうことを誰も信用しなくなり、ある日本当に狼が襲来してそれを知らせるも、誰にも信用されなかったという話である。


この話は多くの場合、日ごろから正直に嘘偽りなく過ごすことで他人からの信頼を得るべきであるという教訓とともに語られる。逆に言えば嘘偽りを喧伝して暮らしていればいつか罰を受けるという話であるのだが、その場合の「罰」に相当するものが何であるかは、地域や語る者によって若干異なるという。おそらく日本で最もポピュラーなオチは「少年が狼に食べられてしまった」あるいは「少年の羊が皆食べられてしまった」というものであろう。しかし元のイソップ童話では狼が食べたのは「羊の群れ」もしくは「羊」であるらしく、こちらの意味で取れば、村の多くの羊が襲われ、そして損なわれたという終わり方であるらしい。
前者は因果応報の典型的な例だが、何のアクションも起こさなかった村人の羊が襲われず少年だけが被害を受ける(最悪の場合死んでいる!)という、胸はすくが不自然なオチということになる。
では後者ではどうだろうか。嘘つき少年は本当の狼の襲来をいち早く知らせようと村中に叫びまわったがそれも空しく、村人が狼の姿を捉えた頃には時既に遅し、羊と人の悲鳴の混ざり物を過ぎて、窓を開ければ臓物を放り出して赤く染まる羊の体とそれを守ろうとして負傷した村人たち。静けさを取り戻した村に少年は歩み出る。誰が少年を責められようか。しかし村人たちはあの時、咄嗟に少年を信じて羊を隠し戸を閉められただろうか。人々の心の中に「あの時ああしていれば」という無数の過去が磔にされ、人々の心の中に浮かび上がってくる。そんな終わり方に、なってしまう。
「オオカミ少年」の話はこのように、リアルに想像しようとすればするほど、ただただ悲劇的で心がヒリヒリする話にしかならない。
それに後者の場合、「いかなる時にも人を信じなさい(そうすれば救われたのだ)」というような教訓を付与することもできる。どんなホラ吹き糞野郎でも汝に声をかける者を信じなさい、そうすれば救われる、道は開ける… というどうしようもなく理不尽で非実践的で宗教臭い教えすら、物語の向こうに見ることができる。確かに現実は不条理で、正直者は馬鹿を見るし憎まれっ子は世のアーリーアダプターなのだ。このような事案が再び起きたら案外、少年の羊だけが助かった、みたいなことにもなりかねない。胸糞の悪いifではあるが。


嘘の警鐘を鳴らし続けるという意味では、現在でもオオカミ少年のフォロワーであるところの「地震少年(代表:@tokaiama)」「幽霊少年(一般に霊媒師と呼ばれる)」「外国人が政治をジャックする少年」などが多数いる。しかし私は、上に書いたようなオオカミ少年の「第二の教訓」を鑑みてもなお、そういう人々を信用することはできないだろう。


結局、寓話『オオカミ少年』における悲劇を評価するならば、何度も嘘をついた少年を教育しなかった村民の怠慢が原因のひとつではあるだろうし、そもそも狼が来たのを肉眼で確認してから間に合うもんなの、とか、津波に対してそうであるように狼の生息域から居住・牧羊スペースを離す(そもそも狼って不用意に人里に下りてくるもんではない、遊牧なら知らん)とか、いろいろ考えたあとでゲーム理論とか安全工学とか経済学の視点からチャチャッとやってどうにかしてよとか、まあ、凄く適当な感想になってしまうよね。狼とか人間で太刀打ちできなくね?羊の一匹や二匹、食べられてもしょうがなくね?