”実話”との接し方

「事実は小説よりも奇なり」という言葉がある。実際、創作にしても面白いほど数奇な運命に、時として人は巻き込まれ、それについての詳らかな記録もインターネットには溢れている。

私は「事実は小説よりも奇」であってほしいと思っている。いかなる創作が敵わないほどの奇妙珍妙な物語が、人間の想像を超えたところにある人間の物語が、この世に生まれ続けることを願っている。しかし、インターネットはこの奇妙なる現実を可視化しすぎた。飽和してしまった。いや、飽和したのかどうかは果たして分からない。いったいどれがどこまで嘘か真か、判断のしようがない。例えば、「日本でラグビーを流行らせたのは津川雅彦」だとか、その程度のわざわざ調べて確かめる気も起きないほどの小さな嘘を積み木のように丁寧に重ね建て、そして出来た嘘は真実よりももっともらしかったりする。その真偽が自分の人生に与える影響など小さく、そしてその場合、ただ消費するだけならば嘘でも本当でもどちらでもいいのだ。ティッシュペーパーを食べるのは正気ではないが、食べたところで腹が壊れるわけでもない。誰にも見られなければ、甘く味の付いたちり紙を人はこっそりと食べるだろう。

Facebookで虚偽の「いい話」がシェアされる。いい話なら嘘でも本当でも関係ないと言う人がいるらしい。Twitterで失踪した人間の情報が拡散される。やってる本人は人助けのつもりらしい。凄いカップルの喧嘩を見た。マックの女子高生いわく。あるいは「今日のハイライト」で検索しても良いだろう。どうやらこの世には震えるほど面白い事件が数え切れないほど起きているらしい。

話は変わるが、インターネットにおける「釣り」というのは昔はエンターテイメントの範疇であったように記憶している。釣られても面白かったから許す。そういうものだったはずが、いつの間にかいたずらに人の感情を煽り、溜飲を下げずにはいられない人間に一説ぶたせてその様を嘲笑するようなものばかりになってしまった。悪趣味としか思えないのだが、最近は釣り職人自らが種明かしをしてみせるようなものも見る。そういえば先日知り合いが開口一番に「英語から三単現のsがなくなるらしい」と話しかけてきたことがあった。引っかかったので記憶を探ってみると虚構新聞の記事であった

自慢じゃないが、デマや釣りに引っかかったことはほとんどない。ハナから信じないからだ。「いい話だと思ったら真偽を確かめずシェア」の逆で、「心を動かされそうになったら沈黙する」という流儀が身についてしまったからだ。いつからだろうか、心躍るようなニュースや逸話に接したとき、ただの面白い話として摂取するだけで、言及したり拡散したり、それが真実であるという前提でアクションを起こすことがなくなった。「話半分に聞く」という奴である。それならソースを確かめなくてもいい、原典に当たらなくても、元の論文を読まなくてもいい、それは「創作かもしれないただの面白話」なのだから。

伝聞形で書かれた面白い話はすべて嘘だと思って読んでいる。「こいつは面白いが嘘しか書かない」と思っているブログやアカウントがいくつもある。ネットだけじゃない。夕方のニュースで「政府関係者の話では……」の後に続いて政局の裏事情が間抜けなナレーションとともに語られるあの調子も、何もかもが嘘だろう。だれも真実性を担保しない事実は、何もかも小説でいいのだ。少なくとも、私がその体験を丸ごと墓に持っていく覚悟がある限りは。

そんな態度になってしまったのはいつからなのだろうか。昔はもっとそれらを信じられていた。事実は小説よりも奇だと信じていたから。そこにエンターテイメントを求めていたから。しかし疲れてしまった。踊らされることに嫌気が差したのではない、踊ることに疲れたのだ。誰が弾くか分からない曲に合わせて人と踊ることが、自らの誠実さにもとるからだ。

始めから「これは創作ですよ」と断って書かれたものをはやし立てるのは楽だ。どこにも罪が生じないから。しかし生身の人間が書く魅力的な事実は、もはや「週刊実話」や「東スポ」と同じくらいの信憑性でもってしか受け入れられない。いや、書いたものだけじゃない。聞いたことがあるぞ、2chのコピペをさも自分の思い出のように話す、醜悪な人間を。

人間不信というわけではないが、いくつもの保険をかけなければ現実を感動することすら出来なくなっていく。そうなることが私の望んだリテラシーなのだろうか、と思う。噂話しか楽しみのない老婆たちのほうがよっぽど幸せなのではないか。久しぶりに実家に帰ってそんなことを思ったりもした。