死んだ祖父について

今年の初夏に祖父が死んだ。

私は死んだ人間の人格について、とやかく言うつもりは無い。というか、好きではない。自分が死んで生前の私についていろいろと憶測を述べられるのは癪だ。己の欲せざる所は人に施す勿れ、である。私自身、祖父については結局小指の爪ほども知ってなどいなかったのだろう。何を知らなかったとして、私がそれを補って語る資格など無い。

よってここでは祖父の遺体の話である(それは良いのかよ)。

私が実家から呼び戻されたのは祖父が亡くなる3日ほど前だった。一月前に、一度具合が悪くなって入院したということで帰った時は、彼は自力で歩くことが出来たし、話すこともした。それから退院して自宅でしばらく過ごした後、容態が急変したとのことだった。私が三重に到着した頃には、自発呼吸はあったものの意識は無かった。命日から逆算すれば、長く苦しい闘病生活などはほとんどなかった計算になる。そのことは、私の取るに足らない不安を和らげてくれるものだ。倒れて、少し経って、旅立ったのである。

祖父は早朝に亡くなった。父が傍らで見守る中心肺停止した。私は臨終には立ち会えなかったが、遺体がまだ温もりを保っている内に、顔を見ることが出来た。私を含め家族はずっと心の準備が出来ていたし、父は私が到着する前に涙を拭き終えていたようだったから、病室には張り詰めた悲しみは流れなかったように感じた。

亡くなったばかりの祖父の横たわるベッドを見ると、かけられた布団がまだ息で上下しているように見えた。自分は死を受け入れることができる柄だと思っていたが、何度見返してもそのように見えた。母にそう話すと、彼女も同じだったようだ。自分の眼というのも案外信用ならないものである。
その後看護婦によって遺体が整えられる間、家族一同病室をいったん離れた。再び入室して祖父の顔に白布がかかっているのを見た瞬間から、なぜだろうか、彼は「呼吸」することをやめてしまった。

私は人間は死んだらそれっきりで、ただの肉と骨になるだけだと常々考えていたが、ドライなスタンスもこうなっては腑抜けたものだと呆れてしまった。

出棺の際も似たようなことがあった。祖父が亡くなってからそれまで一度も泣くことはなかったのだが、出棺して火葬場へ向かう途中、涙が溢れて止まらなくなった。「死んだらそれっきり」なんて、心の奥底ではきちんと信じることができていなかったということである。死後も遺体にいろんな思いを重ねていて、ドライアイスで彼の体が綺麗なままでいた間に、私は実際のところ何の準備も出来ていなかった。棺の戸を閉める瞬間というのは、まだ整理のついていない彼への思いまで引き剥がされてしまうようで、今思い出しても不気味なくらいに悲しいものだった。